風邪を引いたかもしれない。
いや、かもしれないじゃない。
引いてしまった、確定事項だ。
前の日の夜から体がだるいなとは思ってはいたけれど、熱まで出てしまうとは思わなかった。
しかも、7月の夏という季節に。
”夏風邪は馬鹿が引く”とはよく言ったものだ。
頭はそんなに悪いとは思ってはいないが、そこそこ心が打撃を受けている。
風邪を引いて心が弱っているのもあるだろう。
一人でこうして布団に居るだけで、どうしても思考がおかしくなってしまう。
小さい頃母を亡くして父子家庭で育ったは、父の仕事の関係で去年の夏に大阪に転勤した。
親戚も居ない新しい世界に飛び込んで一年。
今のような状態になったら頼れる人も居ないし、父も仕事を休めない。
実質的に一人きり。
自分の看病をするのも自分。
冬は何事もなく乗り越えたのにと思う。
その気の緩みが今回の風邪に繋がったという考えも否めない。
とにかく、一人寂しくて熱と咳が辛いのだ。
朝父が出勤するのを渋ってはいたけれど、生活のために休んでもらうわけにはいかない。
重い体を引きずって、背中を押した。
「いってらっしゃい」という言葉も忘れずに。
借りているアパートの部屋のドアが歪な音を出したのを覚えている。
その後無性に寂しさを覚えたのも。
いつまでも玄関先でうじうじしているわけにもいかず、パジャマのまま引いたままの布団に潜り込んだ。
涸れた声で、通っている四天宝寺中学にも連絡をした。
もうすぐテスト期間にも入るから、さっさとこの風邪を治さなければ。
「・・・とにかく、寝よう」
夢の世界へ旅立つため、そっと目を閉じる。
意識を眠らせるのに、それほど時間はかからなかった。
「」
意識の底で、誰かが名前を呼んでいるのを感じ取る。
「・・・」
それは知っている、とても安心する声。
「・・・」
「ん・・・」
父とは違う、心地よい温かい声は、いつまでも名前を呼び続けた。
「」
「・・・千歳くん?」
ゆっくりとひらけた視界に映り込んだのは、同級生でありアパートの隣人。
大きな背丈で、九州二翼の異名を持つテニス少年・千歳千里。
「ん、大丈夫たい?」
目を覚ましたところに、千歳の顔がぐんと近付く。
正直言って近すぎるほどに。
もじゃもじゃとしている髪の毛が視界の半分を埋めそうになった。
「熱、どれくらいあると?」
前髪をかき上げられ、額に千歳のひんやりとした手が添えられる。
冷たくて気持ちいい。
また再び眠りについてしまいそうだ。
「、熱は?」
千歳の強い声に、瞑っていた瞳をおずおずと開ける。
「・・・まだ測ってない」
それを訊くと、千歳はふっと深い溜め息を吐いた。
俯いて表情は見えないが、きっと呆れてる。
「体温計、どこにあるばい」
「えっと・・・」
直ぐには思い出せず、思考が空回る。
熱の所為でやはり調子が悪いようだ。
どこに置いたのか上手く思い出せない。
「あれ・・・?」
部屋の中を見回す。
このアパートはキッチンとトイレと居間とこの寝室で成り立っている。
居間は余り物を置かないようにしているから、この部屋の中にあるはずだった。
「えっと・・・」
「あの救急箱の中じゃなかと?」
千歳の視線の先は、タンスの上にある救急箱。
「あ・・・」
そういえば救急箱の中に入れたかもしれない。
未だに考えははっきりとはしないが、可能性は高い。
「そうかも・・・」
そういうと、千歳はその大きな体躯を立ち上がらせた。
背の高い千歳にとって、タンスの上もなんのその。
背伸びもせず腕を伸ばしただけで、最高峰にある救急箱をすんなりと取ってしまう。
「この中たいね」
そう言うと、引き寄せた救急箱の中を漁り出す。
もしものとき必要になるかもしれないから、あまり中身を乱さないで欲しいと思うが声に出ない。
「おお、あったばい」
数分もしないうちに、千歳の手に体温計が握られた。
「」
「ありがとう」
布団の中から手を出して、差し出された体温計をしっかりと握った。
今まで救急箱に収められていたそれは、プラスチック特有の冷たさを帯びている。
何処となく、千歳の手の平の冷たさと似ていると思うが、違う。
千歳の手は、同じぐらいに冷たかったが、どことなく温かくもあった。
「早く測るばい」
「・・・わかってるもん」
のそのそと機械を入れ物から取り出して、動きが止まる。
「どうしたばい、」
「・・・・・・」
どうしたもこうしたもない。
今では耳式の便利な体温計も出来たが、の家のものはそうではない。
つまり、脇の下で測るものだ。
「、早く測るばい」
それをこの男はのうのうと急かし、しかもやるまでそれをじっと見ようとしている。
熱がなくても体が熱くなりそうだ。
「?」
「わ・・・分かってるから見ないで」
叫びたいのは山々だが咳き込むのが目に見えているので止める。
体温計を持ったまま布団に潜り込んだ。
前ボタンを一個外して、その隙間から素早く体温計を脇の下に挟む。
汗ばんだ体に、体温計はあまりにも冷たすぎた。
「・・・うわぁ」
そう呟いて、顔だけを布団から出す。
の挙動不審に驚いた千歳とばっちり目がかち合った。
「今、測ってるもん・・・」
千歳が柔らかく表情を崩す。
「わかっとるよ」
大きな掌が、くしゃりと優しくの髪を撫でた。
「むむ・・・」
どこか釈然としない。
頭が上手く働かない所為か、もやもやとした気持ちだけが残った。
「そんな難しい顔せんと、待ってればいいたい」
その言葉と同時に、ぴぴぴと体温計の音が鳴る。
二人で同時にぴくりと反応。
以心伝心したみたいで、少し嬉しかった。
「・・・鳴ったね」
「何度たいね?」
パジャマの下に手を差し込んで、体温計を取り出す。
小さな窓にはしっかりと体温の表示。
「・・・38度ジャスト」
少し掠れたの声が体温を告げる。
「やっぱり熱があるたいね」
「でもちょっとだもん・・・」
ささやかな抵抗は、むっとした千歳の表情に遮られる。
「まだ時間はあるたい。寝たらいいとよ」
布団を喉元まで上げられ、体全体がふんわりと温まる。
千歳はわざわざ冷えぴたを探しての額に貼ってくれた。
「ゆっくり休むたい」
「うん・・・」
冷えた額や温かな布団が、を眠りの世界へと誘う。
「おやすみたい、」
「・・・千歳くん」
おずおずと、は右手を千歳の前へ差し出す。
「・・・?」
千歳はその手の平を、不思議そうに見つめる。
「手・・・握ってくれる?」
ほんの少しの寂しさから、は千歳へ縋る。
一人で眠るのは寂しかった、哀しかった。
夢の世界へ誘われる瞬間だけでも、誰かの温もりを感じていたい。
弱った心は、その感情を忘れることが出来なかった。
「・・・駄目?」
「そっ、そんなことないたい・・・」
焦った千歳の答えだが、うとうとするにはその動揺が分からない。
じっと、千歳の手を待つ。
そしての手の平は、千歳の手の平に包まれた。
「・・・温かい」
の呟きは、そっと千歳の顔を紅くする。
「・・・ありがとう、千歳くん」
顔を見て、お礼を言って、は深い眠りについた。
「好いとうよ・・・」
千歳の愛の呟きを聞けぬまま、ただ千歳の温もりを感じていた。
手のひらでもっと、触れて、考えて
(それだけで、ただ、幸せだった)