きっと見つけられる。
ときめきの小雨が降るの
天気予報は連日の雨を知らせていた。
今朝は家を出るときにはまだ雨は降り出してはいなかったけれど、玄関から一歩出た先で見上げた空には薄っすらと灰色がかった雲が広がってはいたから傘を持って出ていた。
淡い緑色をしたそれは中学に入学した頃に買った物で、小振りだけど雨にも映える草木の葉のように見えてお気に入りで、この傘を差して歩くことが嫌いではないけれど。
雨になったらテニス部は…。
登校の道すがらにそんな事を考えていたのは、この頃あの面々と顔を合わせる機会が増えてしまったせいなのか。
今もまた目の前で「頼むわ、
ちゃん」と、お願いをよこすふうなその1人がいる。
このまま普段通りになるなら部活が始まるまであとちょっと。部に所属している生徒なら今頃は、各々の準備に入ってる時間帯なはずなんだ。帰宅部な私だってそう。HRが終わったなら荷物をまとめて、ちょっと友達とお喋りしたら帰るつもりで、そうしていたら捕まってしまった。
「裏山の方に行くのを見た奴がおるらしいわ」
「携帯で連絡したらどうなん?」
「それがさっきから繋がらんのや。電源入れてへんのか圏外なのか」
「心配せえへんでも、千歳君部活には出てくるんやろ?」
「あかん。コートに誰もおらんかったら、あいつまたどこか行きよんねん。教室借りてミーティングなんて思わんやろ」
すんなり了承しない私に見据える目の色が変わったと思うと、テニス部の部長さんは言いながら深く首を振ってみせる。情に訴えるとでも言うかのようで、私の良心にも小さいながらも鋭い痛みを感じないわけじゃない。
行方不明の千歳君に、今日の部活はコートじゃなくて3年2組の教室でと伝えなくてはいけない。確かに重要な伝言なのかもしれない。けれど他にも人はいるだろうに。
「何で私なん?」
そう聞いてしまいたくもなるものだ。
すると白石君の表情がふっと緩む。
「
ちゃんが一番の適役やと思うんだけど」
その言葉の続きは、あからさまに視線でこう言っている。俺の思い違いだったか?って。それにはぐっと唇を引き結ぶ。
私はテニス部に所属しているわけじゃない。ただ千歳君と同じクラスで隣の席だというそれだけでしかないのに。それだけしかなかったのに日直だの授業の進行だの、千歳君との橋渡しになることが増えていくばかりだった。
考えに耽っていると、目の前からの小さな笑いの気配に我に返り、見れば白石君はまた部長さんの顔に戻り「それじゃあ、頼んだで」と、ぽんと肩を軽く叩いて去って行ってしまった。
黙って見送ってはいるが私が何を思っているのかなんてお見通しだと言わんばかりの背中で、おまけに片手をひらりと挙げてみせる。見えないようにむくれていても、これで私はこのミッションを引き受けることになってしまうのだ。
適役だなんて…どうしてそうなったのか。
いつもこう。テニス部の人達に捕まっては結局Noとは言えない。
嫌というわけじゃないけど、ただちょっと悔しいかななんて思ったりもする。
テニス部のみんなにはとっくに気付かれているのに、肝心な人には気付かれていないんだから。
時間が経つごとに空に灰色が広がり曇天模様になってもまだ雨は降り始めない。けど私の心はすでに雨模様になっているのだから、今日の空みたいに天邪鬼になってみてもいいじゃないって、ちょっと思っていただけなんだ。
千歳を探すならまず裏山に行けって言われているけど、残念ながら今日は外れ。
情報通りに来てみたけど、見事に人気のない裏山には千歳君の気配はなかった。千歳君がいたらすぐに判るはずだから。千歳君は大きいし下駄がカランコロン鳴るし、何より存在感があるから間違いはないはず。
「朝はいたんだけどなー」って独り言も、空気に吸い込まれてしまうみたいに静まり返っている。学校に来てた後はここに来ることが多いみたいなのにと、無自覚に大きなため息が零れていた。ゆっくりと辺りに視線を巡らす。
学校の裏山奥まで進むと、小さな山とはいえ緑が深く空気が澄んでいて、今にも何かが現れるんじゃないかとそんな気にもなりそうだ。その中に聳える、どんぐりのなる大きな木の下。ここが千歳君のお気に入りの場所。
前にもここで千歳君を見つけたときに教えてもらった。
「こげん大きな木からだと、ぐっさりどんぐり成るたい。どがしこ拾えるか…。こっちにもこげんな場所があったばい。ばってん本物の木には敵わんとよ。ああ、よかよか。ここも空気が旨か」
まだ3年生になったばかりの春だったから、どんぐりの季節なんてまだまだ先の話だったけど、あまりにも太陽の様にキラキラした笑顔で言うものだから
「うん…。そうだね」
私もつられてしまったんだ。そんな私に向けられた笑顔が緩み柔らかみを増し。
「まだ都会でも生きとるばい」
幾分かトーンを落としてそれは独り言にも近かったのかもしれないけど、そんな千歳君の瞳は優しい色をしていて私は息を呑んだ。
思えばこれこそが始まりだったのだけど。
「どうしていないかな」
用なし状態の傘の先で何度か地面を叩いてみても、やっぱり何の気配も見当たらなかった。
他に千歳君が行きそうな場所は?学校近くのお寺か大きな池のある公園か。それとも携帯が繋がらないなんて、もしかして地下鉄にでも乗って遠くのテニスコートに行ってるってことも有りうるし、電源切ったままどこかの空き地で昼寝してるってこと考えられるし。
考えれば考えるほど千歳君の行方が掴めなくなってくる。こんな調子じゃ見つけたときには部活終わってるんじゃないかな?
携帯を覗いてみてもそこに着信はなく、千歳君にもかけてみるけど聞こえてくるのは電波が届かないアナウンスばかりで、力なくOFFボタンを押した。
次にメモリの白石君を呼び出して今度は指がONにかかる。白石君は見つからなかったら帰ってきてええでって言ってたけれど。
「
ちゃんが一番の適役やと思うんだけど」
適役なんて。あと少しボタンを押して、白石君やテニス部のみんなに見つからないって泣きついたとして、そうしたら私はお役ごめんになって家へ帰れる。帰れるけど。
脳裏に過ぎるのは先刻の白石君の言葉と瞳。それから「見つかったばいね」ていう千歳君の笑み。
このままじゃ帰れない。このまま帰ったら悔しいじゃない。
勢い良く音を経てて携帯を閉じたらもう一度辺りを見渡して、今にも千歳君がひょっこり顔を出すんじゃないかって一つ一つ葉っぱの影からも見落とさないように目を凝らせて見るけど便りはなく。仕方がないと大きな深呼吸をしながら思い浮べるのはあの笑みで、それから。
「早く出てこないなら、もうノート貸してあげないから」
伝言を残すように呟いて、今度こそ踵を返した。
どんどん濃くなる曇天に項垂れる首筋に、長く続く坂道に重くなるのは足取りと気持ちと、どっちもだ。
裏山を下りて四天宝寺近辺の行ける範囲には片っ端から当たってみようと歩き回ったけど、空振りが続くばかりで時間だけがどんどん過ぎていった。
だけど、まったく掴めていなかったわけじゃない。
午前中にはお寺に行っていたらしい。住職さんが敷地内に住んでいる猫達にご飯をあげているのを目撃していたのを教えてくれた。
公園ではなぜか千歳君の生徒手帳が落ちていた。いつから有ったのか判らないけど、勝手に中を覗くのは憚られるのでそのままポケットにしまったけど、そんなに汚れていないところから察したら最近の落し物なのかもしれなかった。
それから駅前まで出てみたり、あちこち覗きながら歩き回ってみたけれど、見つかるのは今じゃない過去形の千歳君ばかり。
空の陰りがより重くなり、厚い雲の向こうで日が暮れていることを教えてくれていた。
今頃3年2組の教室では、ミーティングが終わりに差しかかって賑やかさを増してるところなんじゃないだろうか。
結局なんだったんだろう…私。
ふと虚しくなる気持ちにダメ押しするように、頬に落ちる水滴。いよいよと空を見上げて手のひらを差し出せば
「雨」
始めは1滴2滴それらが音もなくて降り落ちて、視界が煙るように次第に心細くもなってくる。
適役なんて…。
もう降参したらいいんだ。見つからないって。
始めから引き受けなきゃ良かったって…。早く家に帰ってのんびりテレビでも見て…。そうすれば雨に降られることもなかったし…。
やばい、泣きそう。目頭が熱くなって背中が震えだしそうだった。愚痴を言えばラクになるのに結局学校に戻ろうとしないんだから、本当は思ってもいないくせに弱い言葉が次々零れ落ちてしまいそうになるのは…と、自分に言うように「千歳君」と彼の名前を呼んだ。
この天気だからか人通りの少ない道には静かな雨音さえも響いていた。冷たい雨粒が落ちる。ふと雨に混ざって微かに音が聞こえた気がして、はっと息を呑みこんだ。耳を澄みませてみると、カランコロンと聞きなれた音が確かに聞こえて近づいて来ている。
「千歳君!」
もう一度、今度は強く声にだす。
するとカランコロンと音は止んで、霞んだ視界に影が立ち止まった。
大きな大きな、あの裏山のどんぐりの木のような姿に目を瞬かせてみると、また少し近づいて。
「やっぱり
ちゃんだったとね。せっかく持ってるのに傘も差さんと濡れるたい」
そう言って白い歯を見せて笑ってる千歳君はただの影じゃなくて過去形でもなくて、今目の前にいるのは確かに現実の千歳君だ。
どこに行たの…?探すの大変なんだから!もうノート貸してあげないから!思い浮かぶ言葉はあるけれど、声にできない。
やっと会えた。
ただじわりと胸の中に広がるのは安堵の気持ちで、現金にもつい今までの弱音なんてどこかへ吹き飛んで行ってしまう。瞼がまた熱を持ち今度こそ泣きそうになって堪えようとし眉間に力を入れると、可笑しく見えたのかカラカラと笑われているようだった。
そんなに笑うことないじゃないと瞬時に唇を尖らせても、千歳君の様子は変わらずだ。私のことなんて気にしてないみたいに「差すほどの降りでもなかとか」と空を見上げていた。
まだまだ私の心は土砂降りだ…と、また泣きたくなるけど、ふと千歳君の手の中に馴染んだカラーがあることに気付いた。優しさとどこか強さを感じさせる緑と眩い黄色と。
「トウモロコシ…」
「ああ。あっちの裏の畑のばあちゃん手伝っちょった。そすたらテニスばしとうごたったんじゃ」
言いながらトウモロコシに落とす千歳君の目が優しくなっている。
「白石君たちミーティング言うてたけど、まだ学校残ってると思う」
「そか。この程度の雨なら十分こなっすっこじゃなか。ほな戻ろうか」
カランコロン再び音を鳴らせて千歳君が歩き出す。
「あ、傘」
後を追いながら傘を開けようとするけど、ほんの数歩で千歳君の音が止んだ。
何だろう?おもいきり首を傾けて見上げると、そこにはただ千歳君がまっすぐに私を見ていた。いいこと思いついたとその瞳が言っている。
「その傘借りるとよ」
「え」
「こっちはお礼ばい」
私の手から傘が離れたと思った先、変わりに訪れた緑に目を瞬かせる。それから見上げた先には「あのばあちゃんの野菜はどれもうまか」という無邪気な笑みで。次には傘が広がり心が弾む音が聞こえた。
腕と腕がぶつかり合う程に近づいて、小さな傘の下に広がったのはどんな色だったというのだろうか。
雨を凌げるものではないけど、あたたかい。
天邪鬼な私。始めはあんなに渋っていたくせに本当は嬉しかったり、見つけられないのが悲しかったり。今バカみたいに胸を叩いているのはその全てで、煩いくらい胸の鳴る音がする。
好きなのに。
気付いてる?と隣を見ても千歳君は大きくて視線を合わせることもままならないから、今も歩きながらも顔をまともに見ることなんてできないけれど、誤魔化すように「千歳君濡れちゃわない?」と言ったら、見ていないのに千歳君の笑みの気配が伝わった。
「これくらい気にしなこて。ばってん
ちゃんは冷とうと…」
「私も大丈夫だけど…」
「そか。それなら良かったね」
そうと顔を上げてみると、降りてくる千歳君の瞳の色に私はもう敵わないのだと思った。
これがご褒美だっていうなら私は白石君に感謝をしなければ。
あの得意気な笑みを思い浮べたなら、ほな言うた通りやろという声まで聞こえてきそうだ。
仕方がない。ノートもさっきまでの時間も。
気付いてくれないもどかしさも。
街が煙る雨の音と千歳君の音が胸の鼓動を隠してくれる。
すっかり暗くなった空の下では、灯りが点っている教室はとても目立つ。学校に近づくごとに明かるい光が増えていくのを見ると、まだ残っている生徒は多いのだろう。3年2組の窓にももちろん明るさが漏れている。
「まだ居るみたいだね」
「ああ。そげん早く帰る理由もなかど」
これで私のミッションも校舎に着いて傘を閉じたらもうお仕舞い。
探してる時間は長かったのに、2人でいる時間っていうのは短いもの。いつもそうだった。
今日が終わったら、明日はどうだろう?私は明日も千歳君を探すんだと思う。教室でノートを取りながら、テニス部のみんなに絡まれながら、いつか気付いてくれたらいいなと思いながら。
終着点まではあと僅か。屋内に続く下駄箱まであとは目と鼻の先、そんなとき不意に千歳君が止まった。
「そのトウモロコシ見たら
ちゃんが迎えに来ちょる気がしたばな」
「え…?」
「あの坂下りたら見つけるるばい。その通りっちょるとな!」
「金ちゃんには秘密たい」と、それというようにトウモロコシを指して千歳君は前を見据える。その先を追えば、校舎から勢いよくに飛び出してくる元気な姿があった。
「あーーっ!千歳!ええとこおるやん!!な?わいとこれからテニスしよ?勝負しよ?こんな雨だからってテニス無しなんて、そんなんいややーっ。なな、ええやろ千歳!」
「よかよか。俺も身体動かしたかったばい」
テニスがしたくて仕方がないとキラキラ眼が輝いてる金太郎君と千歳君に続いて、テニス部のみんながコートのある方へと向かう。
傘の下に取り残された私はふと視線を感じ、そちらを見やり目が合うと白石君はさっき思い浮べた通りの笑みを浮べて「ご苦労さん」と労ってくれた。
「また頼むで」
「…考えとくわ」
「素直じゃあらへんなあ。素直じゃないと、気付けるもんにも気付けへんで」
その言葉に息を呑めば、目の前の白石君の表情が緩み、また肩を叩いて去っていく。
天気なんてお構いなしというように、賑やかなテニス部の集団の最後尾のその背からも余裕の表情が伺えるのは、気のせいなんかじゃないと思う。
まったく今日は、白石君にもしてやられてばかりいるような気がする。
そして先頭にはカランコロンと音を鳴らせている千歳君がいて、無邪気な笑顔を見送ってしまえばもう全部チャラだ。
私は残されたトウモロコシに目を落とす。
どうしようかな。このまま茹でてお弁当に入れてこようかな。それとももっと細かくして何か作ったほうがみんなに行き渡るか。
あの面々のことだ明日も煩いくらいに私の前に現れて、そしてまた私の空を刺激していくんだろう。
千歳君も明日はどこまで流離うのか…。でもきっと明日も見つけられる。次第に強くなる雨脚に地を叩く雨音が辺りに響く中でも、まだ千歳君の音が耳に届いているような気がしてテニス部とは逆方向へと踵を返しかけて、思い立ち立ち止まる。
「あ、そうだ!」
生徒手帳渡さなきゃ。
それから意味なんてないんだろうけどまた傘を貸してあげないと。小さな緑の下では窮屈だけど、雨は止んで今はどこより心地良い場所になるに違いないから。
天気予報は明日も雨。
また傘を持って君を探しに行くから。
一度見つけたらもう離さない。
大好きな笑みを思い浮べて、雨音と共にかけていく。