失踪と疾走の夏
フロントグラスにぽつりと雨粒が落ちたかと思うと、あっという間に雨脚が強まった。
路肩に停めた軽トラの助手席の窓を開けると、雨に煙る道の彼方から小走りに近づいて来る人影が見える。
私はバッグからハンドタオルを取り出し、車を降りた。
「降ってきちゃったね」
そう言ってタオルを差し出すと、
千歳君はスイカやトウモロコシやトマトがたんまり入った大きな箱を荷台に置いて、
「涼しくなってよかばい」と笑った。
タオルで申し訳程度に水滴を払い、千歳君が助手席のドアに手をかける。
運転席に戻り、ワイパーのスイッチを入れると、クリアになった視界の先、停まっている黒い車が目に入った。
この田舎道にはおおよそ似つかわしくない車だなと思いながらゆっくり車を発進させると、
その黒い車の近くにあるこんもりとした木々の陰から、突然正装の男女が次々にと飛び出してきた。
黒の礼服、淡い色のパーティードレス、そして目にも鮮やかな純白のウェディングドレス。
「あ」
思わず零れた私の声に反応して、千歳君も窓の外に顔を向ける。
「こげんとこに教会があったとね」
追い抜きざまに木陰の建物を確認して千歳君が言った。
「せっかくの結婚式なのに雨に降られて大変だね」
私は、そんな風にさらりと受け流しながら、
バックミラーに残る白いドレスの残像に痛む心には気づかない振りをした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
途中、ビールやお肉を買って海の家に戻ったのはもう日暮れ間近だった。
「わい、もうお腹ぺこぺこや」
「このスイカめっちゃ立派やなぁ」
「はよ肉焼こ」
裏手に車を停めた音を聞きつけて、ワイワイと騒ぎながら男の子たちが集まって来る。
少し遅れて、エプロン姿のジュンコさんが勝手口から顔を出した。
「お使いありがとう。わ、おばちゃんこんなにいっぱいお野菜分けてくれたんだ。
スイカ、冷やしておこう。食べ切れなかったら明日みんなで分けて持って帰ろうね」
恋人と別れ、絶望的な気分でたどり着いた海辺の小さな駅で、私はジュンコさんに拾われた。
そしてジュンコさんが経営する海の家で、関西から来た大学生たちと一緒にバイトをさせてもらうことになったのだ。
最初は勝手が分からず、戸惑っていた私も、
ジュンコさんの大らかな優しさと、彼らの乗りの良さに助けられて仕事にも慣れ、
徐々に皆とも打ち解けられるようになっていた。
そんな夏も、もうすぐ終わる。
海の家の営業は明日が最終日。
それで今夜は、打ち上げを兼ねてバーベキューをすることになっている。
明日ここの鍵を閉めたら、皆それぞれが普段の生活に戻って行くんだろう。
私は?
明日から私はどうすればいいんだろう?
テーブルに食器を並べながら、ふとそんな考えに囚われる。
8月が終わりに近づくに連れて湧き上がってきた今後への不安。
今までは、ここでの生活の楽しさに自分を誤魔化して、なるべく考えないようにしていた。
でももうタイムリミットだ。差し迫る明日からの現実が、重く私にのしかかる。
仲間たちの楽しげな声も、私の上をするすると通りすぎていくみたいだ。
「さん、どないしたん?全然食べてへんやん」
いつも何かと気を使ってくれる白石君の心配そうな声に「何でもないよ」と答えてお肉を頬張ったけれど、
お皿の上でとうに冷めてしまったお肉は、ちっとも美味しいと思えなかった。
そうやって仲間たちに気を使わせてしまうのがいたたまれなくて、
私はトイレに行く振りをして、そっと海の家を抜け出した。
雨は上がっていたけれど、低い雲が垂れ込めた夜の海は暗い。
浜辺に点在する海の家の灯も、波打ち際まではほとんど届いていない。
私は、波音に誘われるよう、暗闇に向かって駆け出していた。
全部捨ててきたつもりだった。
だって、許せなかったから。
結婚しようだなんて言いながら、平気で他の女を抱いていたあいつも、
そんな浮気くらいでこれほど好条件の男を逃すなんてもったいないと言う同僚たちも、
浮気されているなんて夢にも思わず、暇さえあれば結婚式場のパンフレットを眺めていた能天気な私も。
だけど今なら分かる。何のことはない、私はただ逃げ出しただけ。
親指一本で打った短いメールですべて終わらせたつもりで、闇雲に電車に飛び乗ったけれど、
たどり着いたこの町での生活は、結局はただの現実逃避、ひと夏の幻だ。。
自分から捨てたはずの恋なのに、本当は全然吹っ切れてなんかいなかった。
現に、昼間ほんの一瞬だけ見た花嫁の姿に、心がこんなにもかき乱されている。
悔しさと悲しさと憤りと、いろんな感情がこみ上げて言葉にならない声を上げながら、私は走った。
途中でサンダルが脱げてしまったけれど、そんなことは気にせずに走り続ける。
走りつかれて脚がもつれ、波打ち際に膝をつけば、砂まみれの素足を波が洗っていった。
規則正しく打ち寄せる波の音と水の冷たさに呼び覚まされたように、
頭の中でもう1人の自分の冷静な声が響く。
---また逃げて、どうしようっていうの?---
洋服が濡れるのも構わず水際に座り込んだまま、どれぐらい時間が経っただろう。
「さん、そげんとこ座っとっと風邪ひくばい」
突然声がしたかと思うと、暗闇の中から差し出された千歳君の両手が、私の肩をそっと掴んだ。
掌から伝わる温かさと普段と変わらない落ち着いた声に誘われるように、私はフラフラと立ち上がる。
びしょぬれの冷たいTシャツが肌にまとわりついて、ぶるっと身体が震えた。
「向こうば向いとるけん、それ脱いで着替えなっせ」
やっぱりいつもと変わらない口調で言いながら、千歳君はごそごそと自分の着ていたTシャツを脱いだ。
「でも・・・・・・」
「はようせんね。ほんなこて冷えとったい」
それでも躊躇する私に脱いだTシャツを押し付けて、千歳君はくるりと背中を向けた。
私は気恥ずかしさをこらえて、濡れた服をそろりと脱いでみる。
かすかに千歳君の体温が残るTシャツに袖を通すと、
身体だけじゃなく心までも温かいものに包まれているような、不思議な安心感が広がった。
「・・・・昼間の花嫁さん、きれいだったよね。それに、とっても幸せそうだった」
私が掴み損ねてしまった幸せ。
けれどそれを羨んだって、どうにもなりはしない。
心のしこりを言葉に変えて音に乗せれば、打ち寄せる波音にすっと溶けていくような気がした。
「もういいよ」と告げれば、千歳君がゆっくりと振り、手を差し出した。
「さ、戻らんね」
その大きなてのひらにそっと自分の手を重ねる。
冷えた手がじんわりと暖まっていくのを感じながら、千歳君と並んで歩いた。
ざくざくと砂を踏みしめる音だけが、2人の間に響く。
灰色の雲が途切れて、月の光が射してきた。
不意に千歳君が立ち止まる。
「なに?」とその横顔に問いかけると、照れくさそうな笑顔が返ってきた。
「さんの方が、きれいかばい」
照れ隠しなのか、少し歩調の速まった千歳君の手をしっかりと握り締めて、私はほとんど小走りになる。
大柄な千歳君のTシャツの裾が、膝頭で踊る。
どんどん軽くなる足取りに自分でも驚きながら、大きな背中に「ありがとう」と叫ぶと、
千歳君は振り返る替わりに、温かなてのひらで私の手を強く握り直した。
四天宝寺企画サイト「よつばみち」様へ投稿させていただきました。
とにかく、千歳の方言が難しかった(涙) 四天っこを書いたのは初めてなのですが、少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。
背景の写真素材は、「Fuzzy」様よりお借りしました。