同じクラスの忍足謙也は、クラスの中でも部活の中でも常識人というか、ちょっと抜けたような性格で、わりといじりやすいし話しやすい奴だ。わたしは女子の中でも謙也とは仲が良くて、あと席が近いことから女子から絶大な人気を集めているあの白石とも仲がよくて、学校生活はそれなりに楽しいと思っている。
 でもいつの頃からかわからないけど、突然、謙也のことが好きになった。本当に、突然だった。


「うおっ、すまん」

 やっと衣替えをして半袖の開襟シャツを着られるようになった、初夏のこと。休み時間に教卓の上にあるプリントを取ろうとしたら、偶然謙也と手がぶつかった。わたしはぶつかった相手が謙也だとは思ってなかったし、彼もまた、ぶつかった相手がわたしだと思っていなかったらしい。お互いに目を合わせ、硬直する。まるで、本屋でたまたま取ろうとしてた本が一緒で手がぶつかって、「あっすみません」みたいな、そんな展開。
 でも相手がこいつだと、どうしてもギャグになる。

「うおおおおやったんか!」
「大袈裟だな。少しは黙れ!」
「おおお堪忍堪忍。からプリント取ってええで」
「そりゃどうも」

 簡単に返事をして、「次回の数学テスト範囲」という字が大きく印刷されたプリントを一枚手に取る。二次関数とか三平方の定理とか、範囲がぐちゃぐちゃだと思いながら、謙也の後ろを通ろうとした。すると謙也がこっちに振り向くように動いてきて、お互いの肩が勢いよくドンとぶつかり合う。わたしはあまりの痛さに、おもわず声にならない叫びが喉の奥から出てきた。

「けんや…おま……っ」
「すすすすまん!が後ろ通るて思わんかった!」

 自分の肩を擦りながら、振り向く速さもスピードスターの謙也を思いっきり睨みつける。ぺこぺこと頭を下げてる彼の腹に、プリントを掴んでいる手で一発拳を叩き入れて、わたしは自分の席に戻っていった。
 席に戻ると、右斜め前の席に座っている白石が、頬杖をついてにやにやと口元を緩ませていた。わたしはぐしゃぐしゃになったプリントをまっすぐに広げながら、そんな白石の様子を伺っていた。

「謙也、顔真っ赤やったな」
「ふうん」

 薄いわら半紙のしわを、ひとつずつ丁寧に伸ばしながら、白石の顔を見ずに返事をする。白石の鼻から息が漏れるのがわかった。白石は口から溜め息を出さずに、静かに肩を下ろしながら、鼻で溜め息をつくのだ。きっとわたしがつまらないからだろう。それでも彼の口から発せられる言葉は、完全に笑っていた。

「ほんま、あいつん事好きなんやないの」
「うっそだあ。あいつ女の子気になると、鼻の下のばすでしょ。好きとか、ほんとありえないから」

 あらら残念。ケンヤかわいそー。白石がそう呟くのが聞こえた。
 プリントの件が終わってからも、その後謙也からの視線が増えたような気がする。ちょっと照れたような、困ったような、そんな複雑な表情をしていたけれど、たいしてわたしは気にならなかった。どうせまぐれだろう、偶然だろう。そう思っていた。
 でもそれからというもの、わたしも自然と謙也のことが気になっていって、時たまバチッと視線がぶつかることも、頻繁になっていった。こんなやつが、わたしの恋愛対象に入るわけないと思っていたけど、案外あっさりとわたしは彼のことを気になりだしていた。あいつはただの、ナルシストなへたれなのに!



 謙也と白石が、全国大会で東京から帰ってきて、数日経った頃。少しだけ太陽が低くなり、吹き抜ける風が穏やかになった夏の終わりごろ。この時期から完全にわたしは謙也のことが好きになっていた。ありえないぐらい好きになっていた。好きだという気持ちが、小さな器から溢れてしまうそうなくらい、好きになっていた。

「なぁ、まだ謙也のこと好いとるん」

 授業の合間の休み時間、東京で若干日焼けをした白石が、こっそり耳打ちをする。わたしは一気に頭のてっぺんらへんが熱くなって、白石に黙れ黙れと言い続けた。白石は、そんなわたしを見て遊んでいるように見えた。

「そんなに気になる?」
「俺との仲やん」
「うっわ響き悪い!」

 ――で、実際どうなん。白石は急かすようにそう言った。
 わたしが小さく首を縦に振ると、彼は「そか」と、たったそれだけ呟いた。
 その日の放課後、幽霊部員であるわたしは3、階校舎の教室ににひとり残って、夕焼けに染まっていく校庭を見下ろしていた。テニスコートには、引退したはずの謙也と白石がいて、ピアスくん――たしか二年生でいちばんテニスが上手い子――となにやら話しているのが見えた。現在5時35分。だんだんオレンジが闇に呑まれていく。それでもわたしは、教室に残っていた。
 もしかしたら忘れ物取りにきたとかで、あいつが教室に来るかもしれない。微かな希望を胸に抱いていた。なんて乙女チックなんだろう。



「うおっ、

 ――夢見てたら、ほんとうにおいでなすった。
 ガラガラと、控えめに教室の戸を開ける音がしたので振り返ってみると、そこには大きなテニスバッグを肩に背負った謙也がいた。「こんな時間までなにしてんねん」震えた声が、ふたりっきりの教室に大きく響いた。「残りたい気分だったの」そう言うと、ああそうと曖昧に返事が返ってきて、教室はまた沈黙に戻る。
 そしてすぐに沈黙を破ったのは、彼だった。

「よっ夜の帰りって危ないやん。お、俺が送ったるわ」

 ――嫌やったら別にええけど。声をどもらせて言う。わたしは集中的に顔に熱が集まってきて、爆発しそうだった。わたしは素直に、じゃあよろしく、と言った。謙也の頬は真っ赤だった。きっとわたしも彼みたいになっているんだろう。

 夜の街路地をふたりで並んで歩く。街灯の明かりが、後ろからわたしたちの背中を照らして、地面にはふたりぶんのほっそい影が、足元から伸びていた。わたしはその影をみつめ、謙也は真っ暗な空を見上げている。わたしが横目でそっと謙也の横顔を見ても、彼は気付かなかった。
 もういいやと思い、再びノッポな影に目線を下ろす。

「なんやめっちゃセンチメンタルな気分になってきた」
「謙也って感情に浸りやすいよね」
「うっさいわ。黙っとれ」

 こうやってふたりで歩いていても、わたしと謙也の間の空間が、なぜだかとても寂しかった。この間の数十センチの幅が、わたしと謙也の距離なのかなぁと思うと、だんだん切なくなってきて、頬にたまった熱が少しずつ冷気に溶けていくのがわかった。
 もしかしたら流れで一気に、だなんて、そういうくだらないこと考えてるのはわたしだけでいい!このまま隣にいるだけでいい。どうかさっさと家に着きますように。そう願っていた。
 
「なぁ」

 謙也は立ち止まり、真っ直ぐに向いていたスニーカーのつま先をわたしの方へ向けた。頬は淡く染まっていた。謙也は一息、ふうと吐き出すと、正面からわたしを見てきた。わたしの胸は、さっきからばくばくと暴れていたのに、今はそれ以上だ。煩いぐらいに血が流れているのがわかる。

「俺な、信じてくれんかもしれへんけど、」
「うん」
のこと、好きやから」

 ――は、

 落ち着いた声で「好きだ」と言われた。予想外のことで、わたしの頭はポカーンとしている。だって謙也だったら絶対に「おっおおお俺、のことっ、すっすすす好きやからっ!」とか「今の嘘やから忘れてや!」とかそう言うもんだと思ってた。ていうかやっぱりこれ、わたしこいつから告白されるってわかってたんだ。そして待ってたんだ…。

「へっ返事」
「…え?」
「は、はよう返事聞かせんかいっ」
「い、いきなりなにを、」
「ええから!」

 手首を掴まれる。謙也の大きい手が、わたしの手首を掴んでいる。瞳は真っ直ぐだ。手首を掴んだ勢いで謙也の肩にかかっているテニスバッグが、ずるりとずり落ちる。テニスバッグは肘まで落ちてきて、その重みが謙也が掴むわたしの手首にまで、ジンと圧し掛かってきた。

「返事――はよう聞かせんと、不安になる」
「アホだなぁ謙也は」
「…おまえ、人が真面目な話しとんのに、喧嘩売っとんのか」
「ちがうよ。
 ずっと前から気になってたよ。もっと早く気付いてくれれば、良かったのに」

 ――だからアホなんだよ、謙也は。

 そう言うと謙也はポカンとした表情をして、わたしの手首から手を放す。すると肘までずり落ちていたテニスバッグが、ドスンと音を立てて、コンクリートの上へと落下した。な、なんなんお前。アホ面のまま、謙也はぽつりと呟いた。
 夏の終わりを匂わせる空気が、辺りを包む。規則的な靴音が、さっきよりも明るく聞こえる。わたしたちの間の隙間はなくなって、つま先から伸びるふたつの影は、ぴったりとくっついている。

 ――わたしたちの恋愛に、「もしかして」は要らない。







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090611  「よつばみち」様へ寄稿。参加させていただきありがとうございました!